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「あのスニーカー、昔めちゃくちゃ流行ったよな」
街中でふと見かけたスニーカーに、そんな懐かしさを感じたことはありませんか。
70年代から2000年代にかけて、日本のスニーカーシーンは激動の時代を歩んできました。運動靴としか認識されていなかった70年代から、ヒップホップカルチャーと融合した80年代、そして90年代の爆発的なブームと、その後の氷河期。極端な熱狂と冷却を繰り返しながら、日本独自のスニーカー文化が形成されていったのです。
1995年生まれの私は、これらの時代を直接体験していませんが、だからこそ客観的な視点で、当時の資料や証言を基にその熱狂を紐解いていきます。このブログでは、世界で一番売れたスタンスミスから、90年代に藤原ヒロシ氏が火付け役となったプロケッズまで、時代を彩った名作スニーカーたちの物語を振り返ります。単なる懐かしさだけでなく、なぜそれらが今もなお愛され続けているのか、その理由も探っていきましょう。
昔流行ったスニーカーには、一生付き合いたくなる魅力が詰まっています。
- 各時代の特徴的な変遷
- 日本独自の文化形成
- 名作の魅力と現在価値
- プロケッズの詳細レビュー
目次
昔流行ったスニーカーブランド 前編
世界で一番売れているスニーカーは?

adidas スタンスミス|VOGUE JAPANより
アディダスのスタンスミスは「世界で一番売れているスニーカー」として知られています。1971年の発売以来、シンプルなデザインと普遍的な魅力で、世代や国境を超えて愛され続けている名作です。
1991年までに約2200万足を売り上げ、ギネスブックにも認定されたこのモデル。元々はテニスプレイヤーのスタン・スミス氏の名を冠したテニスシューズでしたが、そのミニマルなデザインが時代を超えて支持され、現在もなお売れ続けている永遠の定番モデルとなっています。前身モデルであるハイレットから進化したこのモデルは、70年代当時から多くの人に選ばれていたそうです。
カラーリングやコラボモデルなど、豊富なラインナップも魅力の一つ。基本となる白いレザーのクリーンな表情は、どんな服装にも合わせやすく、年齢や性別を問わず幅広い層から支持されています。
興味深いのは、このシンプルな白いテニスシューズが、ハイテクスニーカーブームやコラボレーション文化など、さまざまなトレンドが生まれては消えていく中で、一度も廃れることなく売れ続けてきたことです。流行に左右されない普遍的なデザインの強さを証明する存在として、スニーカー史において特別な位置を占めています。
70年代に流行ったスニーカーは?

コンバース オールスター|Beginより
1970年代の日本では、スニーカーという概念自体がまだ存在していなかったそうです。当時は完全に「運動靴」として認識されており、現在の小学生が当たり前にナイキやアディダスを履いているのとは対照的に、有名スポーツブランドの名前を知っている子供はほとんどいなかったといいます。スニーカー好きという人種そのものが、まだ生まれていない時代だったのです。
しかし、技術面では大きな転換期を迎えていたとされています。60年代まで主流だったヴァルカナイズド製法から、足を包むように縁の上がったカップソールが登場。この流れは、コンバースのオールスターから始まり、ジャックパーセル、プロケッズのロイヤルプラスなどといった名作へと続いていました。さらにEVAがミッドソールに採用されたランニングシューズも開発され、機能性が大きく向上した時代でもあったのです。
そんな中で、この時代を代表するモデルが次々と誕生しました。1971年に登場したアディダスのスタンスミスは、前身であるハイレットから進化したテニスシューズで、後に世界で一番売れたスニーカーとしてギネス記録に認定されるほどの名作となりました。また、1972年にはナイキ・コルテッツが登場。オニツカタイガーとの関係から生まれた複雑な誕生秘話を持つこのモデルは、現在もナイキを代表するクラシックとして愛されています。
ただし、日本では輸入品が円安の影響で非常に高価だったため、一般層にはまだ手が届かなかったそうです。それでも、『ポパイ』などの雑誌を通じてアメリカ文化に憧れる一部の大人たちが、ファッションアイテムとして取り入れ始めていたといいます。70年代は、日本におけるスニーカー文化の夜明け前といえる時代だったのです。
80年代に流行ったスニーカーは?

VANS ERA|ABC MARTより
1980年代前半、ステューシーやドッグタウンといったブランドが日本に上陸し、「ストリートファッション」という概念が生まれ始めました。しかしスニーカーは依然として実用品として認識されており、スケーターたちもVANSのERAをギアとして履いていたそうです。ファッションとのリンクはまだ先の話でした。
そんな時代を象徴するエピソードがあります。1985年発売のエアジョーダン1が日本では全く売れず、上野のロンドンスポーツで2000円を下回る価格で投げ売りされていたという話です。マイケル・ジョーダンはまだルーキーで日本での知名度は低く、むしろスケーターたちが安くて頑丈なスケートシューズとして目をつけていたそうです。人気が出るのは1989年のジョーダン4以降で、スパイク・リー監督の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』での露出が転機となりました。
一方で、80年代の日本はファッション情報が極めて限られていました。『宝島』の藤原ヒロシと高木完による連載「Last Orgy」やアメリカから直輸入の『THRASHER』誌、そして1981年に開局したMTVでミュージックビデオをチェックすることが貴重な情報源だったといいます。
そして1986年、スニーカー史における重要な転換点が訪れます。Run-D.M.C.がエアロスミスとコラボした「Walk This Way」で大ブレイク。彼らは「My Adidas」という楽曲でスニーカー愛を表現し、上下アディダスのトラックスーツに紐なしスーパースターというスタイルを確立。アスリート以外で初めてアディダスと契約し、スニーカーカルチャーをアンダーグラウンドからメインストリームへと押し上げたのです。
80年代中期にはDef Jamレーベルが設立され、ヒップホップがロック要素と融合し万人向けになることで、ファッションも連動して広がっていきました。スニーカーが単なる運動靴から、文化の象徴へと変貌を遂げ始めた時代だったといえます。
90年代に流行ったスニーカーは?

Nike Air Max 95|ナイキより
90年代のスニーカー熱はNBAの黄金期と直結していました。マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンの三つ巴にチャールズ・バークレーらも加わり、各選手のシグネチャーモデルが続々登場。しかし話題を総取りしたのはジョーダンでした。1991年のブルズ初優勝から3連覇を達成し、エアジョーダンの争奪戦も激化。かつて2000円を下回る価格で投げ売りされていたジョーダン1が2万4000円のプレ値になったそうです。
さらに90年代中盤になると、21世紀への期待感が時代背景にありました。ミレニアムという言葉が流行し、未来志向のハイテクシューズが人気を集めます。リーボックのインスタポンプフューリー、プーマのディスクブレイズ、そしてナイキのエアマックス95という革新的な3大モデルが登場。特にエアマックス95は社会現象となりました。
人体の筋肉繊維や骨格をモチーフにしたエアマックス95は、最高値約20万円のプレ値がつき、8万円でも即売。「エアマックス狩り」という流行語が生まれ、履いて外出すると強奪される危険があるほどでした。イエローグラデーションを中心とした空前のブームは、スニーカー史に残る出来事となったのです。
ファッション面でも大きな変化がありました。初頭は西海岸ヒップホップのシンプルスタイルが主流でしたが、ウータン・クランの登場で東海岸スタイルが爆発的人気に。ラルフローレンやトミーヒルフィガーを3XLサイズで着るダボダボファッションが定番化しました。ニューバランスM576も人気で、スチャダラパーのBOSEが愛用していたそうです。90年代は、スニーカーが完全にカルチャーの中心となった時代だったといえるでしょう。
プロケッズ|90年代に流行ったスニーカーブランド

プロケッズより
プロケッズは1949年にアメリカで誕生した歴史あるスニーカーブランドですが、日本では1990年代に突如として爆発的な人気を獲得しました。そのきっかけを作ったのが、ストリートカルチャーの先駆者である藤原ヒロシ氏でした。
当時、プロケッズの生産拠点がコロンビアから移転することになり、コロンビア製のモデルが生産終了となることが判明。藤原氏はこれを雑誌の連載で「ラストコロンビア」と銘打って紹介し、特に赤と青のパワーストライプが特徴的な「ロイヤルプラス」に注目したのです。すると国内在庫は瞬く間に完売し、プロケッズは一気にプレミアムなブランドへと押し上げられました。
興味深いのは、プロケッズが単なる一過性のブームではなかったことです。1970年代のニューヨークでは、ヒップホップの創始者たちに愛用され「アップタウナー」の愛称で親しまれていた「スーパー」など、本場アメリカのストリートカルチャーに深く根ざした本物のブランドだったのです。当時は「西海岸のコンバース、東海岸のプロケッズ」と称されるほどの存在感を持っていました。
90年代の日本では、裏原宿カルチャーが花開き、海外のオーセンティックなブランドへの関心が高まっていた時期でもありました。プロケッズはそんな時代の空気と完璧にマッチし、シンプルでありながら存在感のあるデザインが、ファッションに敏感な若者たちの心を掴んだのです。
その後、日本市場から一時姿を消していたプロケッズですが、現在は日本市場向けに特別なコレクションを展開して再び注目を集めています。ビブラムソールを採用した日本限定モデルなど、ヴィンテージの良さを残しながら現代的な機能性を融合させた製品を提供。2024年には原宿に直営店もオープンし、新たな世代にもその魅力を伝え始めています。
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街歩きが楽しくなる最高のスニーカー【PRO-Keds】【プロケッズ】
昔流行ったスニーカーブランド 後編
一生付き合いたい名作スニーカー
プロケッズから提供いただいた「ロイヤルプラス スエード ロー ホワイト PN1021WH」を実際に履いてみました(2025年9月時点:15,400円)。箱を開けて手に取った瞬間、予想以上の上質さに驚きました。特にアッパーのスエード素材の品の良さと、ビブラムソールの作りの良さが印象的でした。
実際に履いてみると、想像以上の履き心地の良さを実感しました。柔らかなスエード素材は歩き始めてすぐに足に馴染み、ビブラムソールのしっかりとしたグリップ力と厚みのあるインソールの組み合わせが絶妙なバランスを生み出しています。
特に気に入ったのは踵周りのクッション性と安定感です。私は踵が痛くなりやすい体質で、これまでクッション性の高いランニングシューズを愛用していました。しかし、このロイヤルプラスの方がより安定した立ち感を得られ、ふくらはぎの疲れも感じません。歩いている時も立ち止まっている時も、踵から足首にかけてしっかりと支えられている感覚があります。
サイズは普段履いている27.5cmでぴったりでした。デメリットを挙げるとすれば、スエード素材ゆえの汚れの落としにくさでしょうか。ただ、ホワイトといっても少しグレーがかった色味なので、多少の汚れはかえって味になりそうです。
調べてみると、ビブラムソールの採用は最近のことらしく、昔からのファンの間では見た目はそのままに履き心地が格段に良くなったと話題のようです。ネットの画像だけでは分からない良さがたくさん詰まった、一生付き合いたいと思える名作スニーカーであることを実感しました。
ハイカットも|90年代に流行ったスニーカーブランド

ロイヤルプラス スエード ハイ マスタード PN1121MU|プロケッズより
前の見出しで紹介したロイヤルプラスには、「ロイヤルプラス スエード ハイ」というハイカットモデルも展開されています(2025年9月時点:15,400円)。基本的な素材や作りはローカットモデルと同様の上質さを保ちながら、足首までカバーするハイカットならではの存在感が魅力です。
ハイカットモデルの特徴は、なんといっても、足首まわりを包み込むデザインによる安定感の向上です。アンクルパッドが足首全体をやさしくサポートし、長時間の着用でも快適さを保つ設計になっています。90年代のストリートファッションでもハイカットスニーカーは重要なアイテムでしたが、このモデルはクラシックなデザインを現代的な快適性で再構築しているのです。
カラー展開はマスタード、ホワイト、ブラック、ネイビーの4色。特にマスタードは、90年代のストリートシーンを彷彿とさせる印象的なカラーで、コーディネートのアクセントとして活躍しそうです。
さらに注目したいのが、防水仕様のモデルも用意されていることです。クラシックなデザインと快適な履き心地はそのままに、雨の日でも安心して履ける実用性をプラス。防水モデルはホワイトとブラックの2色展開で、天候を気にせずデイリーユースできる頼れる一足となっています。
90年代に一世を風靡したプロケッズが、当時のデザインエッセンスを残しながら、現代のライフスタイルに寄り添う進化を遂げている。ハイカットモデルは、その象徴的な存在といえるでしょう。
2000年代に流行ったスニーカーは?
90年代後半のスニーカー市場は、エアマックス95の異常なブームの反動で急激に冷え込んでいました。投機目的でスニーカーを購入していた層が一斉に撤退し、1997年から1999年の3年間は特に厳しく、入荷初日から割引販売が当たり前で、定価で売れることはほぼなかったそうです。当時を知る人たちはこの時期を「氷河期」と呼んでいます。
しかし2000年になると状況が一変します。ナイキのエアフォース1が再評価され、新色展開も相まって大きなブームとなりました。この年にオープンしたアトモスは、日本初のコンセプチュアルなスニーカーセレクトショップとして話題を集めました。それまでの「街の靴屋」とは一線を画す、新しいタイプの店舗だったのです。

MT580 HECTIC×mita sneakersの第1弾|fashion tech newsより
2000年代の最大の特徴として挙げられるのが、ブランドと店舗のコラボレーション文化の確立です。ニューバランスMT580のミタスニーカーズ×ヘクティクのトリプルコラボを皮切りに、各店舗が独自色を打ち出すコラボモデルが次々とリリースされました。単なる復刻を超えた創造的な取り組みが、新たなスニーカーカルチャーを形成していったのです。
さらに、90年代から続いていた裏原宿ムーブメントが世界的な広がりを見せた時代でもあります。ア・ベイシング・エイプのベイプスタを海外の著名ラッパーが着用するなど、日本のストリートカルチャーが世界で認知されるようになりました。
2000年代は、日本が文化の受信側から発信側へと転換した、スニーカー史における重要な転換期でした。氷河期を経て市場が成熟し、コラボレーション文化という新たな価値観を生み出した日本は、世界のスニーカーシーンに影響を与える存在となったのです。
ナイキ|スニーカーの歴史における存在感

ナイキより
スニーカーの歴史において、ナイキは「技術革新」と「文化創造」の両輪を回し続けた最重要プレイヤーです。1972年のブランド創業以来、単なるスポーツ用品メーカーを超えて、スニーカーを文化的アイコンに変えた立役者となりました。
技術面での功績は計り知れません。1979年のエアクッション技術導入はゲームチェンジャーとなり、1987年のエアマックス1でビジブルエアを実現。機能性とデザイン性の融合という新しい価値観を創出しました。これがハイテクスニーカーブームの起点となり、90年代のエアマックス95では社会現象レベルのムーブメントを生み出したのです。
しかし、ナイキの真の革命は1985年のエアジョーダン1でした。アスリートの名前を冠したシグネチャーモデルという概念を確立し、スポーツシューズをライフスタイルアイテムへと昇華させたのです。日本では当初2000円を下回る価格で投げ売りされていたものが、後に2万4000円のプレ値になるという劇的な価値転換。アメリカでは争奪戦が過熱し、社会問題化するほどの騒動となり、一足のスニーカーが持つ影響力の大きさを世界に知らしめました。
ナイキは常に時代の文化と共振してきました。スパイク・リーとのコラボレーション、MTVでの露出など、メディア戦略でも先駆的でした。市場を過熱させ、時に冷却させながらも、エアフォース1の復活で再生させるなど、市場のサイクルそのものを作り出す存在として君臨。2000年代以降はショップとのコラボレーションを積極展開し、現在のコラボ文化の基礎を築きました。
「スニーカーの歴史=ナイキの挑戦の歴史」と言っても過言ではありません。技術と文化の両面から市場を牽引し続けるナイキは、これからもスニーカーシーンの中心的存在であり続けることでしょう。
日本のスニーカーの歴史の特徴まとめ
これまで時系列で見てきた日本のスニーカー史には、他国とは異なる独特の特徴がありました。最も顕著なのは、極端から極端へと振れる激しい温度差です。エアマックス95では最高20万円という異常なプレ値がつき、「エアマックス狩り」という強奪事件まで発生。世界でも類を見ない社会現象となりました。一方でそのわずか数年後には、入荷初日から割引販売が当たり前という氷河期に突入。この極端な熱狂と冷却のサイクルは、日本特有の現象といえるでしょう。
情報源が限られていた時代、日本は独特の審美眼を発揮しました。2000円を下回る価格で投げ売りされていたエアジョーダン1をスケーターたちが「安くて頑丈」という理由で再発見したり、藤原ヒロシが紹介した特殊なモデルに注目したり。オリジナルとは違う視点でスニーカーを評価し、独自の価値を見出していったのです。
また、日本には藤原ヒロシという絶対的なインフルエンサーが存在しました。「彼が推せば必ず売れる」と言われるほどの影響力を持ち、一人の人物が市場を動かすという現象は、他国では見られない特徴です。プロケッズの「ラストコロンビア」もその典型例でした。
そして最も重要な転換は、文化の発信地となったことです。裏原宿ブランドが世界のストリートカルチャーに影響を与え、ミタスニーカーズなどが始めたコラボレーション文化は世界標準となりました。限られた情報から独自解釈を重ね、時にオリジナルを超える文化を創造する。これこそが日本のスニーカー史の本質なのです。
まとめ 昔流行ったスニーカーブランド
70年代から2000年代まで、日本のスニーカー文化がどのように変遷してきたかを振り返ってきました。
・世界で一番売れたスニーカーは、1971年発売のアディダス・スタンスミス。シンプルなデザインで時代を超えて愛され続けている
・70年代の日本ではスニーカーという概念自体がまだなく、運動靴として認識されていたが、技術面では大きな転換期を迎えていた
・80年代は情報が限られる中、1986年のRun-D.M.C.の活躍でスニーカーカルチャーがメインストリームへと押し上げられた
・90年代はNBA黄金期と連動し、エアジョーダンやエアマックス95が社会現象に。ストリートファッションとも深く結びついた
・プロケッズは90年代、藤原ヒロシ氏の「ラストコロンビア」紹介で日本で爆発的人気に。現在は日本限定モデルで再注目されている
・一生付き合いたい名作として、プロケッズのロイヤルプラスは上質な素材とビブラムソールによる優れた履き心地を実現
・ハイカットモデルは足首全体をサポートし、防水仕様も展開。90年代の雰囲気を残しつつ現代的な機能性を融合
・2000年代は氷河期を経て、コラボレーション文化が確立。日本が文化の発信地へと転換した重要な時期
・ナイキは技術革新と文化創造の両面でスニーカー史を牽引。エアジョーダンでライフスタイルアイテムへの転換を実現
・日本のスニーカー史は極端な熱狂と冷却のサイクル、独特の審美眼、藤原ヒロシの影響力、そして文化発信地への転換が特徴
昔流行ったスニーカーブランドは、単なる懐かしいアイテムではなく、時代を越えて愛される理由がある名作揃いです。
▼リバイバルの波に乗って再注目!
街歩きが楽しくなる最高のスニーカー【PRO-Keds】【プロケッズ】

氏名:宮城 良太(みやぎ りょうた)
略歴:文化服装学院→デザイナー
財布などのモノづくりとファッション分野の情報発信に取り組んでいます。